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戸ノ口十六橋水門
白虎隊が逃れてきた洞穴
戸ノ口堰は今から400年前、1623年に八田野村(現在の河沼郡河東町八田野)の肝煎、内蔵之助という人が、村の周辺に広がる広大な原野に猪苗代湖から水を引いて開墾したいと考え、時の藩主・蒲生忠郷公に願いでて、藩公が奉行・志賀庄兵衛に命じて開削に取りかかったというのが起源です。
それから2年くらいは藩の方で工事が行われましたが、財政難のため中止せざるを得ませんでした。その後、内蔵之助は工事の中止を憂い、自分の資材を投げ打ち2万人くらいの人夫を使い、途中の蟻塚まで開削しました。しかし、内蔵之助も個人ですので、資金がどうしても続かずに途中で中止せざるを得なくなりました。それでも開拓の志はどうしても捨てきれず、再び当時の藩主・加藤明成公に願いでて、また藩の方から工事の再開を認められました。
それにより、約15年かけて八田分水まで水を引くことが出来ました。その後、その時の功労を認められて、この内蔵之助という人は八田堰の堰守に任じられ、その土地の用水堰は「八田野堰」と名付けられました。それからも引き続き開削が進められ、1638年には鍋沼まで到達し、それから3年ほどかけて河東町の八田野まで支川として戸ノ口の水路を造り、その時に7つの新しい村が出来ました。これが第1期、第2期の工事になります。
第3期工事は、河沼郡槻橋村(今の河東町槻木)の花積弥市という人が、長原の新田を開拓したいということで、鍋沼から一箕の方を回った水路を造りました。
次の第4期工事で会津若松までつながるのですが、1693年に北滝沢村(今の一箕町北滝沢)の肝煎の惣治右衛門という人が、自分の近くの滝沢付近までいつも水を持ってきたいということで開拓しました。長原新田から滝沢峠を通り、不動川の上を渡し、飯盛山の脇の水路を通って今の慶山の方まで持ってきたといわれています。当時の水路は猪苗代湖から会津若松まで約31kmあり、1693年には八田野堰から戸ノ口堰に改名されました。
当時、雁堰からの水を会津若松のお城、生活用水、防火用水等に使っていましたが、雁堰は湯川の水を入れているので日照り等があると渇水になりました。そのため、会津藩としてはどうしても会津若松まで水を持ってきて、安定した水が欲しいという願いがありました。
それから約140年以上経った1832年(天保3年)、時の藩主・松平容敬公が普請奉公を佐藤豊助に任命して、会津藩から5万5000人を集めて戸ノ口堰の大改修が行われました。1623年以降212年経過しており、山間部を通ってくるため、土砂崩れなどにより常時通水が出来なくなるということで、堰幅、深さを広げました。飯盛山の山裾にある水路も崩れがひどいため、3年程かけて洞窟約150mを掘りました。慶応4年の会津戊辰戦争の時に戸ノ口原の戦いに敗れた白虎隊が逃げ帰ってきて、この洞窟を通って飯盛山に登り、自害したという有名な話があります。
明治15年、失業武士を救済するための安積開拓事業に伴い、十六橋水門の工事を行いました。オランダの土木技師ファン・ドールンを招いて、十六橋に水門をつくり、湖の水位を高くして安積平野に水を引きました。十六橋水門は安積疏水土地改良区の管理ですが、近年は福島県が治水管理を行っています。戸ノ口堰土地改良区はもともと既存の水利として十六橋の箇所を持っていたため、現在は十六橋水門の一門と二門が戸ノ口堰の取水口となっています。
本地区は、会津若松市、湯川村の一部を受益地とし、会津若松市は一級河川湯川と一級河川不動川に囲まれたところに位置し、市街地を中心に東側は山林に囲まれた丘陵地帯、西側は傾斜1/1000~1/100の平坦地になっています。
北側に位置する河東町八田地区は日橋川を境に磐梯町と隣接する地域で会津盆地に属する地域として高台地に類し地形も標高400mを頂点とする丘陵地帯です。
湯川村は会津盆地の中央部に位置し、一級河川旧湯川に囲まれた標高180mの水田地帯です。
また、本地域は、福島県の西部に位置する、いわゆる会津盆地内にあって、阿賀川、湯川等河川沿岸に展開する肥沃な土地条件と盆地特有の気象条件に恵まれ、古くから会津米としての名が高く、本県唯一の穀倉地帯を形成しています。
地区内の約9割は水田整備済である。昭和中期までの10a区画が約36%、昭和末期までの30a区画が約14%、平成2年度以降整備による60~100a区画地域が約50%を占めています。
水路の整備率は10a区画整備地域で45%(約300ha)が未舗装で残されています。
幹線用水路や支線用水路の約9割は舗装が完了していますが、水路の老朽化による改修を求められています。
また、市街地の水路管理について、台風や大雨警報等気象情報により会津若松市が対応し事前に調整を行っています。