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用水路(洗い場跡)
◆地域用水利用の歴史的背景
会津藩は現在の湯川(当時の羽黒川)から分かれる車川から、農業用水、生活用水、防火用水を取水していましたが、鶴ヶ城のお壕の水なども必要になり、黒川堰を作ったと考えられます。戊辰戦争の時に大部分が焼失し、正式な記録が失われたため、黒川堰がいつ作られたかは不明ですが、鶴ヶ城が築城された1592年頃とも言われています。
明治4年、上江堰と合同して上流に堰を移し、雁堰と呼ぶようになります。重要な堰であったものの、日照りが続くと渇水に見舞われたため、猪苗代湖からの戸ノ口堰用水も必要になったわけです。
戸ノ口の水は昔から精米、製粉等、あとは繭、絹工業に使われており、それにちなんだ地名に伴った橋や川(糸かけ川、糸かけ橋、玉繭橋等)がまだ残っているところがあります。また、会津は海から遠い地域ですので、昔から鯉の養殖がさかんに行われてきており、戸ノ口の水を使って養殖が行われたといわれています。
また、戸ノ口堰本水路の脇には、石段を下がっていき、本水路の水を利用して野菜や農機具を洗ったり、風呂の水を汲んだりしていた洗い場が残っています。
◆戸ノ口堰用水の歴史(年表)
1623年(元和9年) | 八田野堰開削 |
1632年(寛永9年) | 堰開発の第二期工事施工 |
1636年(寛永13年) | 八田分水まで開削 |
1638年(寛永15年) | 鍋沼まで開削 |
1657年(明暦3年) | 第3期工事開始 長原村まで通水 |
1693年(元禄6年) | 第4期工事開始 若松まで通水。堰名を戸ノ口堰と改名 |
1835年(天保6年) | 堰筋の大改修工事が行われる。弁天洞穴掘削 |
1888年(明治21年) | 水利土功会を組織 |
1891年(明治24年) | 水利組合法により「戸ノ口堰用水普通水利組合」を創立 |
1912年(明治45年) | 戸ノ口第1発電所建設 |
1919年(大正8年) | 戸ノ口第2発電所建設 |
1924年(大正13年) | 戸ノ口第3発電所建設 |
1929年(昭和4年) | 若松市上水道滝沢浄水場完成 |
1933年(昭和8年) | 東山地内の「雁堰普通水利組合」を合併 |
1952年(昭和27年) | 土地改良法の制定により「戸ノ口堰土地改良区」に組織を変更 |
1973年(昭和48年) | 戸ノ口堰地区県営かんがい排水事業着工 |
1983年(昭和58年) | 県営ため池等整備事業着手。強清水・金堀地区 |
1984年(昭和59年) | 県営かんがい排水事業完了 |
1990年(平成2年) | 県営ほ場整備事業若松北部地区着工 |
1991年(平成3年) | 県営ほ場整備事業若松北部第2地区着工 |
1991年(平成3年) | 県営ほ場整備事業笈川南部地区着工 |
1994年(平成6年) | 県営ため池等整備事業完了 |
1994年(平成6年) | 県営ほ場整備事業若松北部第3地区着工 |
1998年(平成12年) | 県営ほ場整備事業若松北部・若松北部第2地区完了 |
2002年(平成14年) | 県営ほ場整備事業笈川南部地区完了 |
2004年(平成16年) | 県営ほ場整備事業若松北部第3地区完了 |